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朔 (櫻 朔夜)
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自己中30%・アルコール15%・思い込み20%・意欲35%,でも人生換算は120%(アホ

※イラストは某絵掲サイトにてQサマの線画に塗り・加筆させて頂いたモノです。
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 思い通りにならないことってのは意外と多いものである。爪の先ほどの小さなできごとから、抱えきれずに押しつぶされそうな勢いで迫る出来事まで、その程度の違いは別として、挫折したり絶望したりの繰り返しがあるからこその人生だと思う。


 自分の思い通りになったことが多いか少ないかと言えば、多分、多かったのではないかとも思う。都合の良し悪しに関わらず、結末を考えた時、こうだろうと思うようにはしてきたからだと推測。結果が悪いものであれ、いつも最善の答えを探してそうなるよう仕向けることもした。

 勿論、そんな物分りのいい事ばかりでは正直なかった。道理もへったくれもなく、近親者に対して無理矢理に自我を押し通したこともある。結局その後の短期間は満足しても、結局虚しさが襲うばかりの期間を味わい、それらが本当の意味での「思う通り」ではなかったのだと気付くのに、満足していた短い時より時間を要することは無かったが。

 その後悔を繰り返すたび、自分にその出来事は何を残したのか、相手がいるとすれば、どうすることが、相手にとっての思い通りだったのか、それをよく考える。
 自分独りの事ならいい。些細なミスでも重大な決断ミスでも、とにかく自分で自分の始末をつけられる状況ならまだいいのだ。始末がつかないにしても、最後まで責任取れるかどうかが問題であって、自分でした事は自分でやり通す、これはごく当たり前のことだ。と、思っている。



 これに相手が関わってくるとちと厄介になってくる。何せ自分独りでケリをつけられない。喧嘩でもいい、約束でもいい。お互いの思い通りに事を進めようなんて、ある意味神業に近い。それだけの信頼と、方向性を同じくした進むべき道と、更には導入とも言える長い期間が必要だろう。とかく現代では無視されがちな人間関係の構築が、最重要になってくる。余程の事でもない限り、たった数回会った程度の関係で、お互いが思い通りなんてことは難しい。

 いや、逆にそこまで深く付き合うつもりの無い人間関係の方が、そんな柵とは無縁なのかもしれないが。



 要は、何事にも原因があるということ。原因というと専ら悪い意味で捉えられがちだが、思い通りに行くも行かぬも、全てスタートに起因している。自分が思い通りに行かなかった時、一体何が原因だったか?どこかに、小さくとも綻びがあったのではないか?選択を間違えたか?それを考える。

 相手が居ての悪い結果であれば、そもそも、その相手の事を自分は分かっていたのだろうか?自分がこうと思っても、相手は違うかもしれないという可能性を考えていたか?まずその前に、そういう可能性を探れる程、相手との関係は良好だったか?それを考える。

 では、何もかも言うとおりにしてやれば良かったのか?下僕の様に傅いて、相手の思う通りに、それ以外の事に手を出さなければ良かったか?それで相手は満足だろうが、はて自分は?

 では、何もかもいうとおりにしてくれれば良かったか?自分は満足だろうが、はて相手は?

 望む物とは一体何だっただろうか?在るべき形は?何を追っていたのだったか?自分、または相手の独りよがりだったのでは?相手の事を考えたか?相手は自分の事を考えてくれたか?助けてやれたか?助けられたか?


 事の顛末を、どう付けることが互いにとってベストか?
 その顛末は必要か否か?
 
 そして、この事象は成長に値するかどうか?
 成長があるとすれば?無いとすればどうか?




 禅問答だな、しかし。



 自分が今そういう状況である。正確に言えば相手がそうである。僕にはどうするべきかがハッキリ見えていると思う。相手も薄々は感じているのだろうと思う。

 お互いに思う通りではなかったが、何が一番ベストか、分かっているのにそれから逃げられてしまうこの状況を、どうしたらいいのか考えれば考えるだけ無駄に思えてくる。

 それでも、その事を一緒に続けてきたのだから、少しでも逃げずに居てもらいたいと思うことも、無駄なのだろうか。
 切り落とすことは簡単ではあるが、その関係を築くことは簡単ではなかったはずだと思うからこそ、今後どうするべきかを、本当ならきちんと話して済ませたい。相手がいる分、自分だけが自分でケリを付けて終わらすなど、御免被りたいと思うのは独りよがりなんだろうか。それこそ、相手に分かってもらいたいと思うのが、独断的だということなんだろうか。思い通りに行かないことへの憤りなのかもしれないが。



 逃げる相手の心境も、少なからず分かっているつもりだ。だが、それに対して「ああ、そうですか」と鵜呑みにしてやれるような状況ではない。正直面倒くさい。投げ出したいことなど山ほどあった。

 それでもお互いに投げ出さずに来たからこその結果だ。ならば最後まで投げ出すまい。そう思いたい。そう思ってもらいたい。それだけ相手を信用している。時間がかかっても、分かってもらえるのではないかと、希望は捨てたくない。



 きちんと話そう。だから、きちんと話してくれ。



その結果が良いものであれ悪いものであれ

そうあった事実に 無駄なことは何も無いから。





そう思うことは偽善なのだろうか。
だとしたらそれこそ、僕の存在は無駄だろう。
他の誰でもなく、貴方にとっては。

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