大事なものを失いそうになると、人はとにかく「失いたくない」と思うだろうことはよくわかっている。
自分にとってはう失ってまずいものの持ち合わせなど特に無いから、その言葉の意味が解からないと、ずっと思っていた。。けれどそれは、失うものが無いというわけではなく、何もかもを当たり前だと思いすぎているということの裏返しでしかないような気がした。
当たり前のものは、そこに当然あるものとして、失うことなど予想もしていない。
自分が大事に思っているものなんて、普段は対して気にも留めていない些細な何かなんだろう。
それを幸せと取るか、不幸せと取るか、はたまた無感情に受け流すか、三者択一の世の中において、何一つ確かなものなんて無い。もしもそこに具体性を求めるのならば、それは唯、自分の物差しと天秤でしかない。不確かなモノの中に存在する確かなものが無いならば、陰だろうと陽だろうと、それを基準にする限り、世の中に善悪など存在しない。
それでは秩序が乱れるだの何だのと、後付で負荷された先入観など、「人間」の前では無意味に等しい。だからと言って、裁判なんかで言う「情状酌量」なんて言葉で片付けられそうになれば、「その情状」である当人にとってはほとほと迷惑な話なのかもしれない。他人に解る個人の思考など、氷山の一角に過ぎない。
「死にたい」という言葉に対して、「死にたいという人は、本当は『生きたい』と言っている」と、平然と言ったヤツが過去に居た。それは本当にそうだと思う。一理ある・考える余地はある、と言った程度だったが。
その「死にたい」という言葉を簡単に使うものではない、とよく言うが、例えば簡単に使っていなかったとしたらどうだろうか。自分は、本気で死にたいと思っているヤツが居たら、間違いなく止めないな、とその時思った。
それを誰だったかに話した時、「冷たい」と言われたが、それが何故だか解らなかったのをよく憶えている。それが変なのかどうかも解らないが、とにかく自分だったら、そいつが思ったとおりにするのが幸せなんだと思った。それで楽ならそうすればいいと思った。多分、前段階で気付けばよかったのかもしれない。
けれど、人は意外とあっけなく居なくなる。不慮の事故、とか言うなら話は別だし、悔しい思いもするだろう。けれどどうだろう。本当に死にたいと思ったのなら、それが楽で口にも出さずに逝ったのなら、それは本人にとってはとても幸せなことだったのだろうと思う。
残された方の身にもなってくれ、とは間違っても言えない気がした。黙って逝かれてしまうと、本当に何もかもが居たたまれないというのは、身をもって充分理解している。けれど、いくら頑張っても理解できないのだ。どこにその要素があったのか、どこに不満だったのか、どこが悲しかったのか、何が辛かったのか。
だから逆に、いつの間にかだったけれど、逆に「死にたい」と言ってくる人間に対して、「生きよう」とは言えなくなった。「死にたい」と軽々しく言ってはいけないのではなく、本当は「生きたい」という言葉の方が、軽くは無い。そんな気がした。人間は、それが例えいつの事でも、必ず死ぬ。言い換えれば、いつでも死ねる。自殺だろうが他殺だろうが、どちらでも人間は日々、死を隣人に暮らしている。その反対側に普遍的に生があるとは限らない。人間にとったら、「生」の方が、脆過ぎて信じるに値できない現実だ。
最近は選挙も近くて、色々な演説を耳にしていた。「格差社会」を無くそうとか言っていたかな。その「格差社会」を生み出しているヤツらの反吐が出るような演説には、信憑性を持つどころか同意すら出来ない。社会的な格差なのか、精神的な格差なのか、それすら解らない。人間はみな同じ枠には収まれない。格差を感じる場所も違う。その格差が上なのか下なのか、その定義すら、よくよく考えれば曖昧でしかない。物質的に豊かであれば、本当に上位なのか?国としてのエゴ、より良く生きるためという大義名分の下、人間は秩序を守る為に付随されてくる数々の障害物に自ずと振り回されていくだけの生物だ。何某かの先導者に、心理的に操作されて喚起の声を上げ、小さな声には耳を傾けることすらできない、阿呆で陳腐な生物だ。
人間は生まれた時から死に向かう。死ぬ覚悟が無ければ生がまっとうできないのであれば、生きる覚悟を決めて、やがては来る死に顔を合わせたいものだと自分は思う。その生を、自分の予想外の形で終えてしまうような事でもない以上、誰しも自殺に向けての歩を進めている。その時期を、天に任せるか自分の判断に委ねるかの違いでしかないのだから。
失いたくないのなら、失わないように生きるしかない。失わない為の覚悟を決めなければならない。その何かを手中に収めておく為の手段として生を取るか、死を取るか、それは善悪や秩序では測りきれない。当たり前の有難さ、当たり前の辛さ、それを一口で伝えるには、光よりも早い思考回路と理解力が必要だろうと思う。
失うことの辛さも、失ってからでないと解らない。そして、その失うものの対象が人間であった時、失わせてしまった側の人間は、その辛さを知ることができない。だから人間は我侭で理不尽だ。去っていく者は去られた側の何かを知ることはなく、去られた者は去って行く側の何かを永遠に知れない。
去る者は、その何かを、知ってもらいたい訳ではなく、知らなくてもいいと思い至ったからこそ去って行く。それを、去られた側は責めることはできない。
失うのを恐れるのならば、失わないように。失うものなど何もないなどと言える人間の方が、それを言える人間すら居なくなった時に1番落胆し欲するのだから。身近な何かに気が付けない、当たり前のモノを当然として受け止める、これこそが1番の生死に対する裏切りだと、そう思った。
奇しくも日本という世の中は平和ボケだ。生と死のどちらにせよ、覚悟を決める人間など一握に過ぎないのだろう。
「生きたい」、または「死ねる」という覚悟が僕にはあるだろうか?
それとも、無感情に、ただ無意味にこのまま老い存えていくのか?
僕は失いたくない。この確かなものを。自分を作る全ての事象や人物、環境。
この時の為に「生きる覚悟」をさせてくれたその何かに感謝して、
その中で残った何かを、失わずに済んだ事に安堵しながら「死ぬ覚悟」をしたい。
それがたとえ理想であっても何でも、僕は「今」生きていたいのだから、
少しずつ間隔を狭めてくる「死」という名の隣人を、肘で小突きながらそっと耳打ちしてやろう。
「お前には大事な、失いたくないものが何かあるか?」
そしたら、僕の命が死ぬ程欲しいその隣人はきっと言うだろうさ。「それはお前の『生』だろう」と。
そりゃそうだwwww
どうせどんな距離からでも腰を浮かせて詰め寄ってくるんだろうから、1度ぐらいぶん殴って吹っ飛ばしてやる。
いつか「死ぬ」っていう覚悟を決めた長期戦の僕の自殺はきっと今手中にある自分と自分の大切な何かを想像以上に輝かせて、生きる意味を悟らせてくれるだろう。
そして、「死ぬ」っていう覚悟を決めた早急な彼人の自殺はきっとその時胸中にあった自分の大切な何かを守り続けたいが故の、生きた証だったのだろう。
誰も、何も、解らない。あるのはただ、今ここに僕らが居る事実だけ。
本当は失うかもしれない可能性だって
当たり前の現実なのだから。
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