『アルカディア』
著者:櫻朔夜
-なぜか?
仕事だからだ。美羽(みう)はふと自分の中に湧き上がった疑問を、自身で打ち消しながら立ち上がった。控えていた部屋を仕切るカーテンを抜けると、そこはダウンライトで鈍く照らされた店内。白と淡い青に統一された内装はさながら青空、白いソファがまるで雲のようだ。その間を行き交う白いドレスの女性達は、ここでは天使と呼ばれる。雰囲気作りには余念が無い。
フロアに一歩踏み出すと、スッと、白シャツのボーイがエスコートに立つ。手を引かれ、着いたボックスのお客に向かって、ボーイは恭しく膝を折りながら言った。
「お召し頂きました当店ナンバー1の天使、美羽でございます…」
『ただの指名されたキャバ嬢でしょ』
奥歯の更に奥、出かかった言葉を噛み潰し、美羽はふわりとソファに腰を降ろす。その間に、険しかった表情を一気に変え、賞賛絶えないその笑顔を振りまく。
「お召し頂きありがとうございます、美羽です…」
今日も長くなりそうだ、頭の隅ではそんな事を考えながら。
そのお客達がチェック(会計)のサインを出したのは、午前3時を回った頃だった。美羽をいたく気に入ったらしい中年の男が、「この後、どう?」と美羽の腿に手を乗せ、一昔前ではなかろうかという誘いの言葉とともに、だらしなく笑う。あからさまな下心に内心苛々しながらも、『アフター』への誘いは丁寧に断るのが彼女の流儀だ。彼女の厭味の無い自然な応対に、大抵の客は文句1つ言わない。
だが、今回の客は違った。
「こっちは高い金払ってやってんだ、少しくらい相手したっていいだろ!?」
その怒鳴り声で店内が一瞬静まり返った。いつもの美羽なら、それでも笑顔を絶やさずに謝り、またいつでも会えるから…と、なだめる事もできただろう。けれど、美羽はそれができなかった。まるでソファに座る自分を、遥か頭上から見下ろしているような、そんな感覚だった。『断ってこそ』の彼女の仕事が、暴言によっていきなり流れを断ち切られ、一瞬で色を失ってしまったのだ。
頭の中に、また疑問が首を擡げる。
-なぜか?
険悪なムードは、ボーイの一言で破られた。
「お客様、お車が到着しておりますが」
美羽はその言葉で肩をビクッとさせる。振り返ると、先程美羽をエスコートしてきたボーイが体勢を低くして傅いていた。平身低頭はしているが、しかしその顔は冷静なまま、悪びれもしない雰囲気であった。その感情の無さに、逆に圧倒されてしまったのか、中年の男は決まり悪そうに文句を言いながらも大人しく帰り始める。店を出る間際に「どうせ体で稼いでるんだろうが」と、捨て台詞を残しつつ。
取り残された形になった美羽は、立ち上がることも言葉を発することもできなかった。
繁華街の夜は長い。不夜城とはよく言ったものだ。夜の無い街、その呼び名に相応しく、間隔は不規則でいながら、規則的に縦横に走る路地はその広さに関係なく昼間とは異なる人種で溢れていた。雨でも降ろうものなら、ネオンが濡れた地面に反射し、天地もわからないような場所。それでも、そんな濡れた地面を気にするような輩は、ここには多くないだろうが。
閉店時間も近かったのと、騒ぎの延長で美羽は少し早く上がることになった。大通りに出ると、タクシーの行灯が更に明るさに拍車をかける。他店のホステス達が、客と一緒にタクシーの後部座席に乗車していくのを横目に、美羽は待っていた黒い軽自動車の助手席へと乗り込んだ。
「大丈夫か、アッコ」
運転手が声をかけてくる。アッコ…亜紀子、それが美羽の本名だった。
「うん、さっきありがと、伸ちゃん」
伸ちゃん、と呼ばれたその運転手は伸一といった。先ほどのボーイであり、亜紀子の恋人でもあるこの男が、美羽の状態を慮って、店長に自分が送るから、と早退を進言したのだった。もちろん店側は二人がそういう仲だということを知る由もなく、真面目な勤務態度の伸一と、ナンバー1である美羽を信用し切っての早退許可だったのだが。
付き合うきっかけは、伸一の押しの強さ、ただそれだけだった。彼にしたら、ナンバー1のホステスを恋人に持つことで、優越感を味わいたかっただけなのかもしれない。それを分かった上で、亜紀子は承諾した。亜紀子もまた、1つ自分の在るべき理由を得たに過ぎなかったからだ。
繁華街からさして離れてもいない都心の一等地に、亜紀子のマンションはあった。玄関を入るとすぐにリビングへ続く長い廊下がある。半ば伸一に引っ張られるようにしながら、その手前にある寝室へと入り、亜紀子はそのままベッドへと倒れこんだ。
「疲れた…」
そう呟く亜紀子をよそに、伸一はだまって彼女を着替えさせにかかっていた。器用にドレスやストッキングを脱がせ、代わりに、近くに落ちていた光沢のあるパジャマを着せる。ネックレスとピアスを外し、ベッド脇のナイトテーブルへと置く。その間、亜紀子は声を発することなく目を瞑って大人しくしていた。
自分も着替えを済ませた伸一が、タオルを投げて寄越しながら「顔を洗っておいで」と言うまで、亜紀子は少し眠ってしまっていたらしい。だるさを堪えて起き上がろうとしたが、体のあちこちが軋んでなかなか起き上がれない。無理矢理立ち上がりはしたものの、そのままよろけてしまった。慌てた伸一が駆け寄って事なきを得たが、亜紀子の体は、余りに力がなかった。
「アッコ、お前本当に大丈夫なのか?」
伸一は亜紀子をベッドへと座らせて、手を握る。亜紀子は大丈夫、と応えようとしたが、まるで感覚が切り離されてしまったように、自分の声は遠かった。自由の利かない体をどうにかしようと、伸一に握られた左手に力を込めた。だがしかし、それは大した効果もなく、ピクっと、指先が動いただけだった。
それを感じた伸一は、自分の握る掌をゆっくりと広げ、彼女の手を見た。その腕には、外し忘れていた羽根飾りのついたブレスレットがあった。ぐるりと、白い羽根が巻きつくようなデザイン。
「ねぇアッコ、これ、いつ買ったの?」
その言葉に、亜紀子の背中が凍りついた。声は出ない。体も動かない。手首のあたりで、ブレスレットの留め金が外される感触。
どれくらい静寂が続いただろうか。伸一は、ブレスレットを外した亜紀子の手首を凝視したまま動かない。先にその静けさを思苦しく思ったのは、亜紀子の方だった。まるで今しがた水中から上がってきたかのように、呼吸ができない。喘ぐように掠れた声が部屋に響く。
「ごめんね、伸ちゃん」
「………」
「私また…」
「……いつ?」
「………」
伸一はおもむろに立ち上がり、部屋の灯りを消し、ベッドに体を投げ出すと、座ったままの亜紀子を引き寄せて、後から抱きかかえた。窓の外からは、かすかに朝の活気に満ちはじめている気配が感じられた。遮光性があるとは言え、カーテンの隙間から漏れる光で部屋の中は完全な闇ではなかった。背後から伸一が腕を伸ばし、亜紀子の手をとる。親指で手首の傷をなでながら伸一が言った。
「もう、やらないって約束しただろ」
-なぜか?
亜紀子の脳裏を、いつもの疑問が掠めた。
-なぜ、やってはいけないの?
その疑問に呼応するように、伸一が言葉を続ける。
「頼むから、俺の傍に居てくれよ」
-なぜ、私の傍に居てくれないの?
「こういうことがあるから、お前には、俺が必要なんだ」
-なぜ、私を必要とはしてくれないの?
「お前が居ると、俺も安心するんだよ」
-なぜ、私はいつも不安なの?
「愛してる」
-ウソばっかり。私は誰も愛さない
伸一は何時の間にか眠ってしまったようだった。亜紀子は、肩に回されたままの伸一の手をそっと退けると、慈しむように、手首に無数に刻まれた『証』に触れた。新しい傷は、まだ赤味が残っており、力を込めればまた口を開くようにも見えた。
-なぜか?
その答えは明白で簡単だった。
「私にとっては、この傷以外、全てが仕事なのよ」
亜紀子は誰に言うでもなく、天井までの空間に向けて呟いた。
「美羽さん、お召しのお客様です」
控え室にボーイの声が響く。
「今、出ます」
美羽は、召されるまでの時間を持て余している他の『天使達』を尻目に、スっと立ち上がると、仕切りのカーテンをくぐった。エスコートに立つボーイが、ちら、と美羽のブレスレットを気にしたようだったが、美羽は気付かないフリをした。
「お召し頂きました当店ナンバー1の天使、美羽でございます…」
いつも通りのボーイの文句。美羽が腰を降ろすと、ボーイは仕切りの奥へと消えて行った。客は馴染みの常連で、いつも通りの話題がボックス内を行き交う。美羽も社交慣れしたもので、こういった話題に困らない程度の時事問題には、ほとんど精通している。熱心に話す美羽の表情に、客達の1人がふと、こんな疑問を投げかけた。
「美羽ちゃんは、どうしてこの仕事をしているの?」
美羽は、その言葉に少し考え込んでからいった。
「私、このお仕事が好きですから」
「だって、大変じゃない?いつまでも続けられる訳じゃないし…第一、客の望むように振舞うのなんて、結構きついこともあるでしょ?」
こういう質問は、常連客だから許されるのだ。そばに控えているボーイが、なんとなく耳を傾けているのを感じながら、美羽は続けた。
「ええ、でも、私は皆に望まれるようにしか生きていけないから…」
「さすが天使だねぇ。でも天使もたまには休んだほうがいいよ?もっと自分をオープンにしたほうがいいよ、美羽ちゃんもさ」
美羽はそれを聞いて、フフッと笑った。
「そうですかぁ?」
「そうだよ、じゃぁ決まりだ。今日は美羽ちゃんも、仕事は忘れて本当の自分でここに居ること。いいよね?」
今回の美羽に出された注文は、いつも以上に不親切だった。美羽-亜紀子にとっての自分、それはすでにこの世に居ないから。
「いえいえ、そんなのいいですよ!せっかく来てくれたんだし…それに私、いつでもありのままですから…」
-なぜか?
どこかからいつもの疑問が聞こえた気がした。
それに亜紀子は答える。客が浴びせた質問に答えるように。
『私にとっての自由は、この世に無いから』
『だったら、望まれたように生きるのがいい』
『いえ、選択もできない私が弱いの』
『だからこれは全て、私の仕事だと思うしかない』
控えていたボーイが、インカムで呼ばれたらしく、耳に手をあてながらそっとそばを離れていった。彼でさえ、彼女が『選択』をした瞬間にはなんとも思わないだろう。美羽はそう思った。
『本当に必要とする、必要とされるって、どんなこと?』
本当に聞きたいことは、誰しもなかなか聞けない。
●《自己批評》
『うわぁ…散々だね 汗
すみません、ほんっとすみません 大汗
ちなみに「アルカディア」はハーロックじゃありません。ちっとも青春の幻影じゃありません。どちらかというと、店の名前です(えぇ』
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