独りで生きていると思い込んだ者がいる。例えばそれが、本当にそうだとしても、それを見ている他人が居る以上、完全な独りなど在り得ない。
他人と比べられるのが嫌だと言う者がいる。それなら唯一の自分を大切にすればいい。自分の確立が自身で出来ないのなら、比べられている対象すらも見えていないのだろうに。
個性と集団性を履き違えている者がいる。個性的と謳われ、大勢の目に触れた以上、その個性は脆い物となる事を知っているなら構わない。
先入観に捉われた者がいる。やってみなければ解らない事、知ろうと思わなければ知れない事を後回しにし続け、自分には出来ないと言い続けるのであれば、二度と口にするな、と思う。
僕は独りが好きである。独りで居る時間が無くなってしまうのなら他人と過ごす時間は要らないと思う時もある。ある程度の線引きはしないと、自分の境界が他人と曖昧になるからかもしれない。
かと言って、独りで生きているとは思っていない。友人・知人・同僚にしろ、ある程度他人との距離感を測りながら接しているからこそ、自分を見失わずに済んでいるのかもしれない。
そこを行くと、僕の境界内で自由に振舞える他人が居るということは、本当に感謝すべきことだと改めて感じる。
独りの時間が全く無くなってしまう危惧は、今まで何度かあった。それを邪魔する物は全て排除しながらやってきた。僕が心を開いている訳でもなく、許したつもりも無いのにズカズカと僕の領域に入り込んでくるのは許せないし、相手のペースに巻き込まれるなんて、全く承服し兼ねる。そう思って生きてきた。
それは今までもそうだしこれからも変わらない。
唯一変わった事があるとすればそれは
他人を他人として認められるようになってきたことか。
僕とは違う、と。
じゃぁ独りで生きてればいいじゃん、とかそういう問題ではない。僕が思うのは、他人が居るからこその独りの時間であって、これが本気で隔離された空間に独りで置いておかれるとしたら、それはそれで自分の輪郭を失いかけて他人を渇望するのだろうと思う。
それなら何が言いたいんだよと言うのであれば
僕は自分の定義を他人に置きたくないという、ただそれだけに尽きるのだが。
「アナタに逢う為に生まれてきたの」
なんてふざけた少女漫画みたいな台詞は、死んでも言いたく無い訳で。
生まれた意味を考えたとしても、そんなもの見つかる筈もない。過去は済んでしまったもので変えようはないけれど、今の自分を作る要素だったのであれば、否定しようにも時既に遅し。過去に自信を持てないのならば振り返らない、ただそれしかできない。
それに、未来というまだ白紙の時間に意味を探したとて到底お門違いなのだから、意味を探すなら意味を持たせていければそれで充分だろう。
100人が全員、制服など同じ規則で同じ恰好をしていたとしても、それぞれが目を引くと感じる人物は皆同じではないだろうし、もし全員が同じ人物に目を奪われるのだとしたら、その人物には相当輝く何かがあるのだろう、と思う。
奇抜な恰好や言動で目を引くだけならば
それは見世物の安い裸と同じって事さね。
独りで生きているつもりならば、そう思って生きていけばいい。傍から見ればただの独り善がりだ。独りで生きるのと、自立(自律)して生きるのとでは、根本的に意味が違う。
個性的だと思っているのであれば、比べられたとて恐くはないだろうし、先入観でさえ、貫き通して自分のステイタスにしてしまえばいい。
それもできずに全てを他人の所為にして、尚且つ自分の定義を他人に置くのであれば、僕はその人物から何も得ない。思い込みと虚像に守られた「贋作」の自分を演じて生きればいい。自分の確立が前提にある上での『個性』だとするならば。
エル=『輝く』という意味を持っています。
旧約聖書の御柱達の名前に「エル」がついているのはこの為ですが。
(例:ミカエル・アザゼル・サリエルなど)
神に最も愛された天使ルシフェルが、堕天してルシファー(サタン)となったのは最も有名なお話。単純に、輝きを失ったという暗示です。
輝けるか輝けないか、その存在や意識・言動が吉と出るか凶と出るか
それらは全て紙一重であって本人の意思次第。そういうこと。
ただし、他人と関わる以上それなりの覚悟を持ってやらねばね。肯定するのも人間。否定するのも人間。
どちらも聞けねば成長は望めないだろう。
余談だけど、『DEATH † NOTE』のエルってもしかしてそういう意味なのか?と思ったりした。
月(ライト)と対の存在としてさ。月って言葉の時点で「陰」を表わす漢字だしね。「陽」としてL(エル)とか付けられてたとしたらかなり意味深いですねぇ。
実際『竜崎』って
「R」でもいいしね…笑
※解説本とかで既存・前出の考察だったらすみませんw
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