今の自分は、一面を見れば殆ど理想に近い生活をしていると思う。
世間の理想ではなく、自分の中のゼロを基準にした場合の話だが。
他の面はどうかといえば、それはまたそれぞれの自分に理想がある。
自分には、会えば会うだけケンカをする知人がいる。
どうしても素直になれないのはお互いに意地を張りすぎるのも勿論だけど、会わない時間に互いを理想化しすぎているからだと思う。その会わない時間に、次にあったらこうしようとか、次に会ったらアレをしよう…とか、それぞれが色々なことを考えるわけだ。意思の疎通は全く無しに。
するとどうだろうか、会った時にはそれぞれの気持ちがすれちがって、上手く行かないことに腹が立ってしまうのだ。会わない時は会わないのだから、食い違いはしょうがない。
うまくやろうとするのなら、普段は大して相手のことを考えないのも、ひとつの手段なのかもしれない。
気にしなければ会ったときのギャップさえ感じないまま、あぁ、こんなもんだったよな、などと受け入れられるのかもしれない。
気心知れた仲間と会うとき、そんなに連絡を取っていたわけでもないのに、会ってみれば、あの頃と変わらない…などとよく言うが、それはそんなことなんだろうと思う。相手の事を普段から丁度良い距離で捕らえている上に、普段を知らないから、互いの頭の中は、最後に会ったときのままだ。成長するイメージすらない。
だからかもしれない、昔からの知り合いとは気兼ねなく会えるのは。ニンゲンの頭は、巻き戻すことはできても、早送りはできないのだから。
普段大して顔をあわせなくても、メールなり電話なり、こまめに連絡を取っていたりする相手の方が、よくわからなくなるのは自分だけだろうか。
その場その場で、自分のカテゴリーの氷山の一角を見せ合い、誤解を持ったまま認識し続けると、「会う」という普段よりも長いスパンを迎えた時に、噛みあわない事やズレが多分に表れ、それをストレスとして受け取ってしまう。素直に聴ければいいが、自分は残念ながらその部類には属さない。
というわけで、毎度ケンカしてしまうのだ。
だから、何かをするときはこの相手、誘うのはこの相手、誘われるならこの相手、みたいな分類を誰でも持っているのだろう。自分以外の誰かとアクションを起こすなら、その波に乗れる、その時の自分と同じ歩調の他人が必要だからだ。成すことにあわせた人選、聞こえは悪いが、誰でも当然のように無意識で行っているのではないだろうか。
自分の場合は、このケンカ相手はどこに属するというものでは全く無い。なのにまた会おうとする性懲りの無さ。これは或る意味中毒に近いような気がする。同じ極同士は相反するものだが、それぞれどちらかの対極がこちらを向こうとしているのではないだろうか。自分の大分類には、「こいつと居たらケンカ上等」みたいなものは無いが、ケンカすることが日常になりすぎて、会ったらケンカするものだと、深層では思っているのかもしれない。意外とアドレナリンとか出てるのかもね。
そんな下らない話なのだけど、理想が良いか悪いかなんてよくわからない。
でもきっと、それが自分の理想なんだろうと思う。
良くワラって、良く食べて、良く呑んで、良く寝て、
どんな付き合い方でも自分以外の誰かが居て、良く生きていられる。
きっと、それぞれの自分に唯一同じ理想といえば、きっとこれが
無二の理想なのだと、そう思う。
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