全く以って低レベル。それが分かっているのに、相手が食い下がると何故かお互いに恩を売りつけ合う。かと言って、○○の部分の行動をした時には、別にどうしてもらおうとも思っていなかったりする。本当に善意だったり、慈悲だったりとかする。それなのに、一触即発の場面に来ると、何故かそれが見返りを求めていた行動に「言葉によって」すり変わる。
要は、その時は別の意味合いを持った上の思いでも、その思いが通らなかったり通じなかったりすると、慌てて『本当はこうだったのに』と、見返りを求めて失言する訳だ。
そして、その行動に甘んじていた相手は、そもそもその思い自体が分かっていなかったのだから、予想外の展開に『今更言われても』状態で憤怒する。そして恩の売り合い、見返りの求め合いに発展する。
何でも思い通りになると思っていた、または思い通りにしてきたばかりに、他人への思いの不通に憤る人間は得てして【自称】プライドが高い奴が多い、という公式が完成するような気がする。
そもそもプライドとは何ぞや。
自尊心。誇り。自負心。辞書にはそう記述がある。そら熟語として見る分には当たり前の言葉なんだが、どうも「プライドが高い」と豪語する人間には、その自負心だの何だのが見当たらない。誇り?…多分、誇りと身勝手を勘違いしている気がする。『自分にはプライドがあるから』と、他を寄せ付けない輩に限って、その大層なプライドとやらに反する人間には、やたらと自分を押し付ける。
そこでもチャッカリ損得が発生する。自分の考えを呑んでくれる者、意にそぐわない者、その二択のうち、前者を「無意識に」必要とするのは必須だ。「プライドが高い」という思い込みや自己啓発によって何も受け入れようとしない人間は、実はその押し付けを受け入れてくれる【他者】が居ないと存在すらできない、一匹狼を気取る羊の様な存在だ。
自尊心や自負心といったものは、自己完結でなければならない代物だと思う。状況にもよるし、全てがそうだと言い切る訳ではないが、他人を在るがままで認め、それでも変わらん『芯』を持つ人が、プライドを持った人と呼べるんではないだろうか。
『相手に○○されてプライドが傷ついた』
などと安易に言うものではない。
信念なら最後まで自らが貫いてこそのプライドだ。結果相容れない、ということはあっても、『相容れない』存在や事態を認めることはできる。認められない事態から簡単に傷が付いて躓くようなプライドなら、それは信念でも何でもない。相手を下位に置いてプライドの端を覗き見たいだけの、ただのエゴや自己顕示欲だ。
と、ここまでで話を元に戻す。
人間には誰しも無意識に損得を求める傾向がある。
ボケとツッコミ、弄り役・弄られ役、征服者・服従者、雇用主・従業員、そして男女、他多数。損得ではないと思っていても、対義の存在は片方が無ければ片方が存在し得ないという利に基いて、れっきとした損得の発生する関係だ。
それらは互いを認めざるを得ないモノであり、その実、ただ呼吸するこの時間でさえ、どちらの側に居ても何ら通常の生活を送る上で差し障りのあるモノではない、普段の事である。
プライドとは、そういうモノの事を、いうのだろうと思う。
人間関係に『見返りを求めるな』とは言わないけれど、『見返りの無い可能性』を知り、そこにおいて躓いても、その始まりを理解し昇華できる人間こそが、真に強いプライドを持つ人なのではないかと思う。
プライドとは縋りつくものではなく、自然とついてくるものなんだろうな。
理解して、それでも違うと思ったならソレが自分の『芯』だろう。
理解しようともせずにプライドを盾に却下するのが同じ『芯』と言うならば、自分は間違いなく成長のある方を選ぶ。そこから必要(得)な存在か不必要(損)な存在かの、次への選択肢は、自ずと見えてくるだろう。
それが自分の損得勘定。
それを持ってしまうことで自分に振り回されるくらいなら
プライドなんかいらん。それが俺のプライドだったりする。
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