って、あるのだろうか。
国立駅舎の取り壊しを今日初めて知った。
馴染みだったあの三角屋根が、次に訪れる時にはもう無いのだと思うと、寂しく思う。
景観保護条例のある地区だから、きっとまた素敵な駅舎になるのだとは思うけど〔笑〕
変わらないものの良さ、ってのに古臭さを感じるわけではないが、いざ『不変の存在』を問われると、
答えられるものは意外と無い。
目に見えないぐらいの速度でも、時流が在る限り変化はある。
それに関わる事象や人物に最期がある限り、新たな関わりは永遠に続く。
不変であるものは、捉える側に『不変』という先入観を持って接してくる。
私達はその小さな変化を読み取る事なく受け流すことの方が多い。
『不変』の存在が崩れることの方が、変わったと認識するよりも受け入れ難いから。
きっと新駅舎も、国立の『不変』に無くてはならないものになっていく。
それが、変わらない日常の1コマになっても、
私は『変化』を忘れない。
『不変』のものとは、何かに対する人の思い込みや思い入れだったりするのだろう。
『変化する』ことを受け入れたり実行するのは容易くない。
ただ、何事に対しても、始まりだけは必ず存在するということ。
誰にも同じ『不変の存在』。
感じるか感じないかは
知る人ぞ知るってとこかな。
今日も私は、私の『不変』を過ごしている。
私を見失わない、それが私の『不変』であるから。
次に国立の地を踏む時には、
新駅舎を拝んで初めて、駅舎の変化よりも
国立に対する私の思いの『不変』を知ることだろう〔笑〕