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※イラストは某絵掲サイトにてQサマの線画に塗り・加筆させて頂いたモノです。
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元ネタのトピです。→view_bbs.pl?ses=&id=7552988&comm_id=89931

 今更ながら参加〔笑〕書くつもりはなかったけれど、ふと最近、リァ友に同じ問いかけをされたので…


◆我思う、故に我あり◆

 さて。最初の『我』を【どこ】に、【何】に定義するかで大分意味が変わる。しかもこれ、逆にしちゃうと『私は何とも思わない、だから私は居ない』になっちゃうんだね。屁理屈だけどね〔笑〕。でも、なんと言おうと存在はしている。したら答えは簡単。でもそれじゃ終わっちゃうから薀蓄。

 与えられたり、追求する情報としての哲学は勿論好きだけど、哲学とは、ヒトが人たる理由を探求する学問であると私は思っている。その理由を人外のものに置き換えると宗教に。でも、現在まで根付いている世界の三大宗教に至っては、哲学と出生のルーツは同じだろう(イスラム教については割愛の余地アリ)。とにかく、新興宗教の開祖にでもなりたければ哲学と思しき考え方と、少しの謙虚さがあればいいだけだね。

 要は哲学を持つ人間の考えに賛同できればそれは宗教に発展し、最初の学識ある者は神とされる。ブッダが良い例で、彼はどちらかというと、人間があるべき姿というものを説いている。まぁ、ちょっと目をつぶらなければいけない言葉もあるけれど。キリストなんかはもとから「父なる神」を売り(語弊があるかもしれないけど)にしているが、ブッダは神がいるなどとは口にしていない。勝手に神格化したのは、わがままな人間だ。そのくせ、都合のいいように解釈を変え、どんどんと枝分かれする。
 哲学だって、都合のいい解釈はいくらでもできるのだし。「テツガク」などと大それた名前が付くから騙されるのか?なら『我思う、故に我あり』を現代風に言い換える?

『私、こんな風に考えてるの、だから(そう思ってるのも間違いなく)私なの』

普通じゃね?何が凄いの?


 西洋の哲学者達が開祖にならなかった理由は、お国柄(絶対神の信仰)と宣伝下手、これに限る〔笑〕そこ行くと孔子とかは巧かった。中国のもともとの信仰は対仙人(超人、つまり人間と認識される)であったからだ。西洋みたいに(ギリシャ神話に代表されるような)信仰がある上で、人が人たる理由を
説いたところで、はっきり言って異端だ。人は神が作ったものであるからだ。もとのルーツが同じものであるのに何故に分割された学問であるかは、これが理由だ。大体、『人が人たる理由』をどんどん広い目で見てったら、宗教学者も科学者も、更に言えば数学者だって、ほとんど哲学と変わらないもんになるぞ。


 そんで本題。正直な話、この『我思う、故に我あり』という言葉を聞いて、『はい、そうですか』と思ってしまうのが私だ。
どこかこれについて議論すべき点はあるか?トピ内の発言は勉強にはなるが、皆と違う答えを捻り出すことに懸命で、多少この言葉の真意からは逸れてる気がする。

 『人間は考える芦である』とつまりは同義。ただ少し違うのは、『我』の意味を『自分』に固定しがちであるということ。だから上手く理解できない。
 『考える、思う』からヒトは人間である。ただ、それだけの話。私にとってはね。だから、以前と考え方の変わった『我』は、既に『我』でない…というのはアホだ。どんなに考え方が変わろうとも、人間には考え方が変わる経緯というものが必ずある。三年前に考えていたことと考え方が変わったらもう『我』ではない…というのであれば、その経緯は意味のないものに変わる。全てを含めてこそ『我』なのではないか?と私は思う。記憶と知識は増えるもの。その上で成り立っている今の自分が受け入れられないのであれば、生きている意味こそ少なくなる。関わった人物・事象、それを否定しては何も考え得ない。

 むしろ自分が意識した『考える』という行為をしていない間でさえ、人間の体は交感神経と脳によって強制的に考えさせられているのだが…って、ここまで言うと趣旨と相当ずれるからまぁいいとするが。

 考えることは生きていれば誰にでもできるツール。ただ、程度や内容の違いはある。そこで初めてできる個人差が、『人間である他人とは違う私』だ。それが『我』。ここで初めて『我』を自分と定義できる。

 こんな事を考えてる時でさえ私も私だ。哲学的思考なんて、誰にでもある。受け入れるか受け入れないかの問題で、ただの価値観と組み立ての違いとも言える。哲学なんて、ただのライフスタイルみたいなもんだろ。相手が納得してくれることがあったなら、喜ぶがいいさ、あんたも無意味な哲学者だ。
 
 勿論これ読んで共感する誰かが居れば、私も然りだ。哲学をバカにした発言だったとしても。私なら他人(学者)の生き様とか考え方知るよか自分の考えだ。それで誰かどっかの哲学者と同じ考えだったのなら、その時初めてそいつが自分の中で哲学者っていう認識に変わる。名前に騙されるのは真っ平ゴメンさ〔笑〕こんな言葉に議論するより、むしろ哲学者の定義の方を聞いてみたいくらいだね ゲラ



 んだから、私の回答は、『我(われ)』に固執せずとも、在るべき姿そのままで、誰でも『我(が)』を持っているのを前提に、『我』に対する明確な回答は無い、と言い切る。

この言葉は単純に常識的なのだ。

 『我』の解釈も定義も人それぞれ。それぞれだからこそ『我』は何ぞやとの問いに答えは無い。答えはそのものずばり、この言葉が全て。あぁ、なんとなくだけど、こう言ったものに議論するであろう人間を、デカルトは馬鹿にしたかったのではないかとも思えるくらい、単なる人間の説明に他ならないような気がしてきた。哲学なんてそんなもんだし。

 『私は私なりに考えている。その思考も行動も、全て私が私(人間)であるからこそ』

 『我=私』に固執せず、何故『我』が『我(人間)』であるのか考えたら、『思う』から『我』だったんだって、単にそれだけの言葉だ。皆やってる事でしょ?違うの?

 この文章を読んだ人は、そんなの解ってるよ~とか言いそうだし、なんかハッキリしねぇ文章だ…とか思うかもしらないけど(笑)

 だからこそ私は、デカルトの言う『我』についての説明というか薀蓄を垂れても、私自身が定義する『我・自分』というものを明確にすることもしない。多分ちゃんと読んでくれたり付き合ってくれてる人には言わなくても分かることだから。私は哲学者じゃないしね〔笑〕そんで、これが私の哲学ですから。



不真面目に考えてるわけじゃないよ?笑
現に哲学書は好きだしね…(オイ

人の例や言葉に頼った上に、それについて議論や推察をする場合は、哲学ではなく、哲学に寄生しただけの屁理屈に聞こえる。
要はこの『我思う、故に我あり』って言葉自体の意味を考える(例えば我って何?)みたいなのは、哲学でない。それはただの国語の勉強。

この言葉を考察するならば、例え同じ意味合いに結論させるしかなかったとしても、発想を転換させて、『何故私は私なのか』と考えるべき…というのが私の哲学の定義です。

だから、下らんと申すのですよ。


納得する答えなんぞ、自分が一番の基準なんだから誰でも、普通に生きてるだけで誰でも簡単にやってるのが哲学さ~〔笑〕

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