この世は地獄です。
そう呼ぶに相応しい世界を、私は見てきました。裏も表も、この、小さな眼で。
――――今日も私は、深夜の繁華街を裏路地から眺めています。人の波がうねり、喧騒とネオンとが煩いモノクロの一端です。けれどそれの反対側を見やると、表の雑踏とは別の意味でざわつく、不穏な空気の末端を垣間見ることもできます。
私が寝城にしている路地は、そんな対極の空気が入り交じる境界でもあったようでした。昨日は、使い走りといった風体の若い男が、格上げと僅かな報酬の餌に釣られて、鉄砲玉となるようでした。私の路地で、思い詰めた様に佇んだ若者の視線は向かいの店に。そこから今にも星が出て来るのではないかと、脂汗に塗れ、歯をカタカタいわせながら、何かを自分にしきりと言い聞かせていました。
昨晩は救急車の騒ぎなど此処いらでは無かったですし、パトカーや野次馬の出動もありませんでしたから、若者はきっと秘密裏のうちに処分され、明け方には深い海へと沈み、餌に釣られた自らの体躯で、魚達の恰好の餌にでもなっているのでしょう。それも私には関係の無いことですが。
今日はといえば、私の仲間達が、どこからか盗み出して来た、見るからに粗悪な食糧を貪り、その後予想通りに苦しんで死にました。泡を吹きのたうつ姿は滑稽にさえ思えました。明らかに虫がわいている様な代物でしたから、私は初めから見向きもしませんでしたが、彼らは余りの空腹に絶え切れなかったのかもしれません。仕方の無い事でしたが、私はそんな仲間達の様にはなりたくありません。例え空腹に耐え兼ねたとしても、そんなものを口にして無様に死に様を晒すのは、プライドが赦しませんでした。
とは言え、私も生きている以上、腹は空きます。ただ、私は保守的なので、伝統に従い食糧を探す時は単独行動を主にしています。
子供を、更には妻までもを薬殺された私には、最早孤独は当然の事であり、再び家庭を持つには余りに歳を取り過ぎていました。若ければ違ったのかも知れませんが、そのショックから立ち直った頃には、当時よりも私達を取り巻く状況は悪化していて、追われた仲間達は皆散り散りとなって行きました。ですから、新たな出会いなど無いに等しいものでした。
今夜も、いつものように食糧を探し始めて数十分後、突如私の目の前で凄惨な事故が起こりました。どうやら労働者の男が自ら、流れの激しい車列へと飛び込んだ様です。通行人の途切れる気配を見せなかった歩道が、飛び散った血液や肉片で騒然となり、人の流れが止まりました。
野次馬、破片を掻集めようと躍起になる処理班、緊急車輌…路肩に身を潜めて、それらの隙をじっと伺っていた私は、少し放れた場所まで飛んできていた死者の肉片を、此処ぞとばかりに一片くすねることに成功しました。この世界で、夜に生きる私には日常化した行為です。事故や自殺など、この界隈では当たり前の事。更に路地の奥まで入り込めば、死人を見つけるのは容易い事でした。誰も咎めはしませんでしたし、どちらかと言えば清掃活動のようなものとでも言うべきでしょうか。
そんな事を考えつつも、久し振りに新鮮な肉にありつける喜びが私を支配し始め、空腹が絶頂へと近付いておりました。急ぎ、帰路を辿りかけたそんな折、背後よりこちらを凝視するような視線を感じましたので、その方向へと眼を向けますと、同業者…とまでは行きませんが、反対側の暗がりで、私と同じように死者の肉片を手にした者が、こちらをじっと窺っていました。
会話はありませんでしたが、確かな連帯の空気が互いの間に流れ、気付いた時には、独りを好んでいた私が、初対面の相手と共に走り出していました。
昨夜、気の毒な鉄砲玉が佇んでいた私の路地へと辿り着くと、私と彼は、そのまま今日の獲物を貪り始めました。例え、この死んだ人間が絶望の縁にあったにしても、私達には問題など有ろうはずは無く、むしろたった今しがた迄生きていた新鮮な肉は、久し振りに味わう馳走でした。
私は今迄にも何度か、死んだ者の肉を食らった事がありました。ただそれは生きる為であり、私の妻子のように人前に姿を曝して為に捕獲され、殺されてしまったり、仲間達のように経緯の判らない食糧を口にして死んで逝くのを畏れていたのもありましたが、この世界で表沙汰にならない死人は数知れず、その肉は極簡単に手に入る安全な食糧でもあったからです。
しかし、今日相席となった彼は違いました。彼と私は夜を徹して各々の素性や仕事について語らいました。そして私はその夢や展望に激しく共感し、仲間達や愛する妻子を失った事実を仕方無く受け入れる事しかしなかった自分を、猛烈に恥じました。私はこの時、彼のお陰で変わったのです。
数日後、私と彼は高い塀の上で、その時を待っていました。私にとっては初仕事です。
排気物質や高い気温によってその姿を朧にされた月が、鈍く頭上を照らしており、先日鉄砲玉として消えた若者の胸中が察せられる思いでした。
今にも切れてしまいそうな街灯の、ジリジリと言う電子音に混じって足音が聞こえて来ると、相変わらずのモノクロの視界の端に今日の獲物を捉えました。いつも私の行動時間である深夜、その男がここを通る事は、彼と2人で既に確認済でした。
街灯の明かりが届く範囲外の闇の中から照らされた路上へ、ぬっ、と男の片足が踏み込んで来ておりました。軽くアイコンタクトを取って一呼吸置いた後、彼と私は影となり風となり、今はもう完全に光の中へ全身を曝している獲物へと、音も無く飛び掛かりました。
『うわっ、何だ!?』
はっきりとは理解できませんでしたが、その様な事をこの獲物は叫んでいたのだと思います。もともとは狩猟を生業とした私達ですから、打ち合わせなどありはしません。ただ今は、目の前の獲物を本能のままに攻撃するだけです。
口を目一杯まで開き、何度も獲物の喉元に飛び込み、牙を立てて声と呼吸とを奪う。目玉を抉り出し、皮膚を鋭い爪で破り、脈を裂く。私達の跳躍力や瞬発力は、常識の範疇とは比較にもなりません。何より、襲って来る筈の無かった小さき者達に襲われた瞬間の獲物の狼狽と、状況認識の遅さと言ったら、嘲笑を誘うぐらいでした。
初めて出会った夜、彼は教えてくれました。今、各地で様々な種族が生き易さを求めて戦いを挑んでいると。熊や猿、カラス達だけに頼っていてはいけないとも教えてくれました。虐げられているのは、私達野良猫だけではなかったのです。
その人間の男は、出血とショックとで呆気なく気を失いました。息の上がった私達の目の前に残ったのは、同じ生き物などでなく、今にも息絶えそうな、『ただの肉の塊』…。
同志はこれから増えていくでしょう。真新しい血と肉の臭いに、何処からともなく集まる仲間達を見ながら私は確信しました。
今迄、狩られる側だった私達は、その立場を逆転させる時を迎えました。復讐という糧を与えてくれた彼には、本当に感謝しています。
まず一人目。
地獄は切り拓く為に在るのです。
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