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※イラストは某絵掲サイトにてQサマの線画に塗り・加筆させて頂いたモノです。
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その昔
唯一溺愛している妹達に激怒した事がある。


それは、「本を読まない」という事である。

妹は二人居るが、そのどちらにも1度ずつ。
『本を読まない』からといって、『本を読む』事を強要しようと思った訳ではないが、
どうしても必要なのではないかと思ったからこその怒りでありました。
かと言って、自分がそんなに読んでいるのかといわれれば、
大して読んでいる方には入らないと思う(爆。


だがしかし、

英語を学ぼうとしていた真ん中の妹が言った。
「私は翻訳家になりたい」

伝わらない事に憤りを感じる末の妹が言った。
「私の言うことは誰も理解してくれない」




私は二人に言った。


真ん中の妹へ
「本での表現を知らずに、英語が話せたとて翻訳家になれるはずがない」

末の妹へ
「理解してくれないのではなく、理解してもらえるように話せないのではないか」




語彙の不足。これである。
伝えられないもどかしさ、というのを感じて欲しくなかった。ただ、それだけの老婆心。


自分は他人に、思っている事や考えている事を伝えるというのが
物凄く苦手だった。それだけに、そういう思いはあまりしてほしくなかった。


けれど、「伝える」という行為をする以上、「汲み取る」という行為も必ず付随してくる。そして、それが理解力へと直結するかというと、そうでもないというのが事実だ。

理解力というのは、想像力があってこそその威力が発揮されるものであると思う。
自分はよく使ってしまう言葉だが、「可能性」を想像できる人間こそが、真の理解力を持つ人間だと思う。

「理解」というのは個人の基準に基づくものであり、相手から理解を求められる以上、「汲み取る」為にはその相手の基準を多少なりとも知らねばならない。独り善がりの「理解」はただの思い込みに過ぎず、与えられた情報の1面しか見ることができない。多方向からの視点がもてない人間に、理解力を求めること自体、無駄な行為ということだ。
人間は多くの「理解」を求めて伝えようとする。相手に届く言葉は、本当に数少ない。そのピンポイントな相手の理解を得る為に言葉を紡ぐとしたら、その言葉は無数の針穴を目がけて繰り出す糸のようなものに近い。相手の数が多ければ多いほど、その糸は多くなくてはならなくなる。1つの言葉で理解を得ようとすれば、理解者の数は圧倒的に率が下がるからだ。

同じテーマで話をする人間が二人居たとしよう。根底に流れる主題は全く同じでも、そこに居た人間達に賛成できる方へ投票しろと言えば、確実に二分されるだろう。話す言葉は皆それぞれに違う。そして、それを聞く人間も、みなそれぞれに違う理解力を持っている。


なら、表現の方法として数多く言葉を知っていたほうが有利だ。


それが絵画であれ、音楽であれ、伝える事に意味がある。受信する側は、自分が容易に汲み取れる対象に加担する。好みの問題もあるし、多くの人間に指示されたとて全員が全員理解しているなどということは全くもって無いけれど。


『大多数』の意見は得てして『一般常識』と取り違えられやすいが『常識』なぞ、『他人かもしれない、誰かの思考』だ。
じゃぁ何か?沢山の言葉を知っていて、相手によって話す言葉を選べば
それでいいのか?


いや違うねぇ。対個人の場合は。


それは理解を「させる」場合の最終手段だね。自分の言葉を話す以上、良い意味でも悪い意味でも理解できる人間と理解できない人間が居る、ということを分かっていればいいのだろうさ。

上から目線ぽい発言だけどこうして自分が今書いているこの記事でさえ受け入れられるか受け入れられないかを危惧しているかといえば全く、サッパリだ。
対象を絞るコトをしていないしね。。。いつも、どんな意見があっても良いと思うからこその言いっぱなしだ。

受け入れられる奴が受け入れてくれればそれでいい。受け入れられない奴が居たからと言って責めるつもりもない。ただし受け入れられないからと言って理解しようともしないで真っ向から否定するだけの想像力の乏しい人間にはなりたくない。


真意を汲み取りたい。その根底を知りたい。できるなら理解したい。その場のノリで発言することは容易だ。敢えて外した発言をすることも可能だ。けれど、その言葉の裏にある多くを慮るのは容易くはない。それが出来るからこその想像力であり理解への近道であると思う。そしてそれが出来て初めて伝えるという行為がスムーズになる。



実際何かを伝えようとしてテーマを絞れば絞るほど、案外伝わらなかったりする。これは自分の実体験だが(苦笑
うまいことまとまっているように見えて、その実、多少の矛盾点があるもの、詰めが甘いもの、曖昧な表現が含まれるもの…
そう言ったものの方が理解を得易い。いや、理解を得易いというか、意見しやすかったり、されやすかったりする。
それは、「想像する余地」があるからだと自分は解釈しているが。入り込むだけの隙があるから想像しやすく、また、個人個人での理解の幅が増える。

逆に、断言してしまうと、その言い切りによってそれが全てになってしまい、他人はその一面によって想像の余地を奪われる。もしくは勝手に想像することはできても、その見せられた一面が正解だと言われてしまえば、反論する勇気を持つ人間は余程でない限り現れないだろう。

人間は完璧を求める割に完璧を恐れる人間だ。
完璧な人間などどこにも居ないと頭では思いつつも、文章力や話術などで丸め込まれると、その完璧さに対して異常な恐怖を抱く。
それは入り込めない・受け入れてもらえないかもしれないという恐怖と同じだ。自分の存在がそこに認められない限り、人間はそこへは絶対踏み込まない。理解してもらえないだろうという勝手な想像。自分の理解だけを求め、相手には理解してもらおうともしない人間は多い。結果、茶化したり誤魔化したりするだけになっていく。理解させるだけの表現力が無いから、相手から踏み込んでもらうしかなくなる。興味を引きたいだけの茶番劇となる。『完璧な人間などいない』という『一般常識』が、自分で自分の足を引っ張る結果になっているんだろう。



さて、話が広がりすぎたところで。



普通に生活する以上、選挙にでも立候補しない限り大勢の同意を得ようとする場面というのはほとんど無い。相手に対して、自分に合った相応の言葉を知っていればそれでいいのだ、というのが本当のところ。言いっぱなしってのはこういうことさ(超爆




それでもやっぱり
言いっぱなしにする以上、それなりの言葉は必要だわな(笑


受け入れられなくても構わないっす。受け入れようとしてくれる人が居ればそれでいいし、知りたいと思える人が目の前に居ればそれで僕は満足だ。まぁ、そう思える人ってのは出会った人の中に限定されるがね。だから、可能性は狭めたくない。

可能性を狭めない為にも想像力と理解力と表現力を求めていきたい。



妹達にあの時言い放った言葉は理解されたのだろうか。それとも僕の基準の押し付けだったのだろうか。
それはもう、本人達にしか分からないな 笑




僕にももう、わかんねぇよwwww
可能性の示唆はしたからなwwwww 
許せ、妹達(´∀`)

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