会話にしてもそう、無言の雰囲気から、打ち解けた関係へ昇華させるのは、言葉を選んだり神経を使ったりしながら、時間をかけて『創り上げ』ていく、立派な創造力だ。
最終的にその創造物が自分にとって良かったか悪かったか、それはそれぞれだろう。
悪ければ腹だって関係だって壊れるし、良ければ成長するし続くのだろう。
たまたま私は絵を描いたり、文を書いたりする。これは私にとって良い創造行為。ギリギリの精神力で描いたり、時間も多くかけてきたが、最終的に手元に残って一番嬉しいのは、それを観たり読んだりしてくれた人達の存在だ。
ある種、私が創りたいのは作品ではなく、それによる他者との絆や自分の存在価値なのかもしれないと思う。
熱中し、或いは心酔し、最終的に創られる自分が心地良い時間や仲間。大きく括ってしまえば、内容や目的は違うようでいて、実は同じ部分に集約され、全てが『創る』行為へと繋がっている。
満足できなければ、進み創り続ける。便利さを知る現代人が生活レベルを下げられず、更に楽になるように発明を繰り返していくのと同じように、満足感は一過性のものであって永遠ではない。
それならば創るしか無いのだ。
そして
生物レベルになれば、長期的な展望のもと、子供をつくり次世代へと託していく。
それが、生き物に可能な最大の創造力であるとともに、生き残る為の努力でもある。
何かが欲しい、こうなりたい、こうしてあげたい、こうしてほしい、これが食べたい、あれが見たい……
その為に相手の事を考えたり
早く帰ったり、時間を作ったり、何かを努力(犠牲に)しながら
望みを叶え(完成させ)ていく。
創る事は
平等に与えられたツール。
そして
羨んだり、貶すことでしか己を創ることができない、負の創造力を持つ人も居る。
その発信と受信の方向性は皆それぞれ違うものだから。
私は
正負がどうあれ
絵と文で、私と私を取り巻くものを創る。
貴方は
何で、自分と自分の輪郭を創っていますか?
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